2012年9月8日土曜日

舞城王太郎の芥川賞落選後日談。村上龍が「なんで短編集をノミネートすんだよ!」と怒ってた件。


文藝春秋九月号を、やっと読むことができた。第一四七回芥川賞発表が特集されている号だ。
この号には芥川賞受賞作が全文掲載されているのだが、実は受賞作の掲載には興味がなく、“芥川賞の選評”こそが目当てであったりするのだ。

ここで誤解なき様に言っておくのだが、受賞作の掲載に興味が無いというのは作品に興味が無いという意味ではなく、単行本で読むので文藝春秋で読む必要性を感じないという意味で興味が無いだけである。

……と言い訳をしたところで、本題に入ろう。


舞城のノミネート作。短編集ってのは、やはり違和感が大きい

この回の芥川賞は、舞城王太郎が『短篇五芒星』でノミネートされながら、見事に(?)落選した。実はこの落選、わたしをはじめ舞城ファンの大半が予想していたことではないかと思う。ノミネートのニュースを聞いた瞬間、ほぼ全員の舞城ファンはこうツッコミたかったはずである。

「なんで短編集なんだよ!」

『短篇五芒星』じゃ無理だ。舞城ファンの多くが、そう思ったはずである。
なんで『やさしナリン』や『あまりぼっち』じゃないんだよ……。誰もがそう思ったはずである。

短編集で芥川賞を闘うなんて、前代未聞だ……とまでは言わないにしても、大きな違和感を感じた人は多いのではないだろうか。そんなわたし達の違和感を、村上龍が選評で的確に指摘してくれた。その部分を、丸ごと引用する。

舞城王太郎氏の『短編五芒星』について、わたしは選考を「棄権」したので、その理由を書く。まず、わたしの棄権に関して、作者は何の責任もないということを確認しておきたい。棄権の理由は、短篇連作という「形式」にあって、作者や作品そのものにはないからである。連作は、掌篇連作でも、短篇連作でも、もちろん中編連作でも、それぞれの作品が何らかの形でお互いに響きあい、影響し合って、結果的に作品全体に、ある効果が生じる。
だから、単一の作品で表現している他の候補作と同列に評価するのは、フェアではないと判断した。ピアノ・ソナタの作曲コンクールに、ピアノ・コンチェルトが出品されているのと同じだ。小説にかぎらず、表現において、形式というのは案外重要で、たとえば形式を破壊するという企みを持つ作品でも、形式の力を借りることになる。
形式はコンテンツをある程度規定し、コンテンツは形式を選ぶ。だから、形式が違う作品を同列に評価するのは、ワタシの価値観ではアンフェアだった。
(『文藝春秋』二〇一二年九月号より引用)

さすがは村上龍! これだけで、ご飯三杯はいける!
そうなのだ。中編と短編集を同列に並べることに、違和感を感じるのだ。短編集であっても相互作用によって一つの主題が浮き彫りにされるのであれば、中編と何らかわらないのではないか……そう考えることができるかもしれない。しかし村上龍が指摘する通り、やはり形式が違うのだ。だから、同列で比較することに、違和感を感じるのである。

この指摘だけで、村上龍の選評の多くの部分を占めている。選評の文字数は、決して多くない。貴重な文字数を割いてでも言っておかなければならない、そんな意志が伺える。
この批判は作品に向けられてものではなく、ノミネートした運営側に向けられたものである。運営のあり方について、公の場で大きく批判した形となる。

他の選考委員の選評は、概ね予想通り。要約するのなら、「五つの短編の相互作用で、何が浮かび上がってくるのか解らない」という事になるだろう。過去二回、舞城押しだった山田詠美ですら、「候補作の対象にならないのではないか」との評だった。
そして過去二回、舞城をこき下ろしていた宮本輝は、もちろん今回もかましてくれた。これが予定調和というやつか……。

新手の禅問答のような短篇を五つ集めて意味ありげな題をつけたにすぎない代物だと思った。
(『文藝春秋』二〇一二年九月号より引用)

サスガデス。
ここまで切れ味するどい嫌味は、なかなか言えるものではありません☆

いやいや……。

舞城ファンとしては、本当に残念です。
受賞できなかったことが残念なのではなく、短編集でノミネートされたことがとても残念です。
デビューからすでに十年。純文学の新人賞という芥川賞の正確を考えると、次のノミネートは難しいのでしょうか。まぁ、芥川賞を獲らなかったすごい作家として、これからも面白い作品を紡いでいただければ、ファンとしてはそれで良いのですが……。

あ、そう言えば川上弘美が、短篇五芒星の中で『あうだう』がよかったと評してらっしゃいました。わたしと好みが同じです。仲良くして下さい(笑)





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